フリーターに未来はない?

フリーターに未来はない?
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/2001.3.6.htm
id:sarutoruさん経由。生田武志氏によるフリーターの現状分析。気になった部分を箇条書きで抜粋。

  • モラトリアム型フリーターこそ「何を目的にしたらいいのかわからない」のだから、「スキルを磨いて競争しろ」という批判は、いまいち具体的には届かないような気がする。
  • 更に言えば、企業の正規雇用は今や高学歴者に絞られている。「いい大学やいい企業に」入る「競争社会」は、上層の方でのみ参加できる超激烈なものになった。
  • 第3次産業での末端の現場労働者は、相対的に多く女性によって担われる。この結果、高度な知識や技術を持たない若い男性は失業にさらされやすくなってきた。
  • フリーターが忌避しているのは「資本」ではなく「会社」、より正確には会社への正規雇用と言える。多くのフリーターは、社会を避けているのでもないし、また賃金労働を避けているのでもない。
  • サラリーマンとちがうのは、「正社員」として働くかどうかという労働に対するアプローチの仕方だけ。
  • すると、フリーターを批判して例えば「社会から逃げている」と言う人は、社会と会社を同一視しているのである。
  • つまり、広く行われている会社にまつわる様々な慣行にハマっていくこと、要するに一つの会社にまるまる所属することを「社会人になること」だと誤解している。
  • 我々が労働を通じて一体性を自明視していた「社会」「共同体」の感覚は、徐々に「国家」「会社」「家族」から乖離し始めている。
  • フリーターの激増と、不登校の増加とはおそらく相当の血縁関係がある。
  • 不登校は、よく言われるように「世の中から逃げている」どころか、フリーターの「会社」拒否と同様、社会性と自分らしさを失わさせる現在の学校に対する防衛反応とさえ言える。
  • しかし、単に「学校」を拒否しただけで、社会そのものを拒否したかのように見られてしまう、つまり「学校=社会」という理念が生き続けているという点でも、不登校とフリーターとは互いに関連している。
  • しかし、不登校の場合とフリーターの場合とは、実は事情が大きく異なっている。
  • それは、不登校が、学校にとってはその意に反する危機状態であると言えるのに対して、フリーターの激増は、むしろ企業側の思惑と一致するからだ。
  • 不登校の児童・生徒は学校には特に貢献していないが、フリーターは十分会社のために、献身的なまでに働いてしまっているからである。
  • サラリーマンとフリーターとのこうした対立は、極論から極論へという不毛なものには見えないか。
  • なぜなら、本当は両者のちがいは単に労働形態のちがい、労働へのアプローチのちがいにすぎないからである。それをもって、「生の冒涜」や「勝ち組、負け組」を云々するのはそもそも飛躍がある。
  • フリーターで生涯を過ごした場合、夫婦共稼ぎでこどもも住宅も車も持たなかったとしても、年間の収支は常にゼロに近く、しかも50代半ばで確実に家計は破綻するとされている。
  • フリーターが今持っている会社正規雇用からの「自由」と引き替えにした不安と孤独。
  • ワークシェアリングはとりあえず(当座)の、日本経済内部の(局地的な)解決策にすぎない。
  • 「競争」からの逃避は、無批判な「国家・家族の一体感=協力」へと帰着する危うさを持っている。
  • 「永遠の好況」というものがありえない以上、当然ながら景気の回復の待望は文字通り「当座」の解決策にとどまる。日雇労働者の歴史を考えれば、景気変動正規雇用労働者に一方的に有利なものとなることは明らか
  • NPO、NGOの発展は、われわれにとって「両刃の剣」となる。それは、新たな形態の「国家」の管理、つまり社会のあらゆる多様な細部にまで張り巡らされる新たな国家「管理」の一翼を担うことになりうるから。
  • 今、フリーター層をはじめ、多くの人々が「国家」「資本」「家族」の矛盾と限界に直面しつつある。
  • 「競争社会」への拒否感がフリーター層に強いとしたら、それは「社会からの逃避」や「向上心のなさ」というよりも、競争社会を否定する「協力社会」への適応の可能性において考えるべきなのかもしれない。
  • 問題は、むしろ、その「協力」の行方にある。
  • フリーターが現時点で求めているものは、経済的な闘争などではないのかもしれない。むしろ多くのフリーターが求めているのは、学校、会社のような退屈な、閉じられた世界の対極にくる濃密な時間、生の実感、そして予想外の出会いを伴う(メル友みたいな)コミュニケーションの機会なのかもしれない。
  • その「濃密な空間」とコミュニケーションは、民族的、国家的共同体の中で得られるのだろうか。それとも、質的、量的により「広い」グローバルな「わかちあい=協力ゲーム」へという方向で求められるのだろうか。その双方が今、萌芽状態にあり、未知数である。