ややこし研

雨降るなかややこし研のため梅田へ出る。今日のテーマはナカヤンさんの感性論。議論の中身はセンセイの日記を参照してもらうとして、今回も話に参加することなく寡黙にすごしてしまった。それもこれもナカヤンさん独特の感性と感覚の意味づけの違いについて、どうアプローチして考えればいいのかわからなかなったから。

しかしここはわからないなりにつっこんで質問すればよかったかもしれない。おぼろげながら、社会化もしくは社会的ふるまい。または社会と世間のちがい。幼さとは社会性の欠如というより、本人がもつ世間のひろがり(射程範囲)にあるのではないか。庵野秀明が「日本では社会より世間について考慮していれば事足りる」みたいなことを以前しゃべり場で言っていた。世間とはなにか? 公私が入り混じった社会より直接性のつよい空間、もしくは関係性、のようなイメージ。まあなんにしろ、「わからない」という事態にたいしてどうふるまえばいいのか。これは先週からの課題でもある。

二十世紀に定着してしまったものは「個人の自由」だが、そこから生まれるのは、「自分の挫折は自分オリジナルの挫折である」と言い切る権利である。「自分オリジナルの挫折」は、結局のところ、自分で切り開くしかないものなのである。(中略)

「わからない」は、あなた一人の恥ではない。恥だとしたら、「この世のどこかに“万能の正解”がある」とばかり信じて、簡単に挫折しうる「自分自身の特性」を認めないことが恥なのである。「特性」がいいものだとは限らない。橋本治『「わからない」という方法』

「わからない」をスタート地点にする技術、というよりふるまいが必要なんだろう。などと考えながら終電で帰途につく。雨上がりの亀岡はカエルの音色につつまれていた。いなかの空気にほっと息をつく。