学校は社会ではない?

橋爪大三郎幸福のつくりかた』のなかで学校教育についていろいろ語られている。曰く、日本の教育がうまくいかず学力の低下や意欲がなくなる根本の原因は学校が「社会」ではないからだと。

社会とはなにか? 橋爪氏はこう続ける。それは人と人とが独立した人格として出会い、相互に影響しあう場であると。そこで人は関係し合い、信頼し合い、互いに成長していく。しかしいまの学校教育はそうなっていないそうだ。

日本の場合、教員が勝手なことをしないように校長が見張り、校長が勝手なことをしないように教育委員会が、教育委員会を文部省(現文科省)が見張るという関係になっている。現場ではほとんど裁量の余地がない。教員も校長もただの管理者に堕し、人格が消え失せてしまっている。学校で教育が成り立たないのは当然のことなのである。

学校は外の見えない何かによって監督され、子供たちは一方的に監視される監獄のような場所にいる。子供が勉強する目的は、上の学校に行くため、就職するため。勉強そのものが大切だとは思わないし、ほんとうは勉強なんてしたくないと思っている。それでも低学年のころは言われたとおりにやるからうまくいく。

ところが人格が形成されるにつれて、生徒は校内暴力や不登校や中退といった形で反抗しはじめる。自我が確立するのと並行して勉強への意欲がなくなっていくのが、日本の教育の現状であるとするならば、フリーター、ニート、引きこもりといった社会問題は、そういったことの延長線上にあるのだろうか。

と、この部分だけ抜粋してもなんだか杓子定規な不登校擁護論みたいでつまんないな。本書の「幸福な学校」の章は、もうちと具体的な学校改革論が主軸なんだけど。