希望格差がなんだってんだ

仕事の帰りの電車。嵯峨嵐山からティーンネイジくらいの若い白人の男女のグループがどやどや乗りこんできて、隣の渓谷の駅で降りて、その風景に口々に「ワーオ!」とか「オーマイゴッド!」とか言って騒いでいた。オーマイゴッドな駅のとなりが僕の最寄駅なわけですが。

まあそれはそうと人が楽しげにしてる姿は見ていて気持ちがいい。僕は例えば他人の悲しみとか苦しみとか怒りにはあまり共感するタイプじゃない。人のために泣くとかよほどのことでない限りありえない。フリーターとかニートなんかの階層化問題には関心があってここによく取り上げるけど、それにしたって社会に対して怒りをためこんでるわけでもない。

このままだとまあボロ負け組だなあ、困ったなあ、みたいなところから現状認識をある程度厳しくして今後いかにしてサバイバルしようかとは思っているけれど、社会運動にたずさわってこの格差社会をどうにかしてやる! なんて気概は微塵もない。

それよりいかにして楽しく豊かな貧乏ライフをエンジョイできるか、っていう工夫を考えたい。悲しみや怒りにはさほど共感できなくても楽しさや喜びにはけっこう乗れるほうなので、もう伸びない感情はとりあえず置いておいて伸びそうな感情に沿って生きたいわけだ。

いやそりゃ豊かな貧乏なんて語義矛盾してるし夢想的な所もないではないし、生活保護世帯なんかのほんとの貧乏がどんなものかってのも多少聞いてるので困難はあるだろうけど、いやまあきっとなんとかなるよ。なんとかしよう。なにが希望格差だ。そんなのにとらわれるもんか。おっとめずらしく前向き。いや、前向きなのは我ながら気持ち悪いな。まあ後ろ向きでもない、くらいの感じで。