淡々とした一日

今日も暑い。コーヒーとトースト1枚をとってから、ネットでハローワークとアルバイト情報誌のウェブ版で地元中心に検索をかける。ハローワークのほうで5件ほどピックアップして印刷。途中、頭のつぶれた猫の死体や、干あがるすんぜんの用水路ではねる数十匹の小魚を横目に、地元のパートサテライト(ハローワークの簡易版みたいなもの)に出かける。不吉な。

求職票の期限が切れていたので再登録して、興味がわいた5件のうち2件の求人の詳細を窓口で調べてもらうと、毎度の雇用のミスマッチというやつでその場であきらめる。いい年してスキルもキャリアもない男となると、ほんとうに選択の幅がない。自分が女だったらたぶんとっくに決まってるだろう。フリーターに未来はない?で述べられているが、「第3次産業での末端の現場労働者は、相対的に多く女性によって担われる。この結果、高度な知識や技術を持たない若い男性は失業にさらされやすくなってきた」という分析をまさにいま実感しているところ。

夕方にコンビニで買ったカフェオレとカレーパンで遅い昼食を保津川のほとりでとる。ほっと一息。住むぶんにはいいところなんだけどなあ。それから郵便局で金をおろして最寄駅で ICOCA 定期券を購入。帰宅して、「社会思想史を学ぶ人のために」のアダム・スミスの項をよむ。そのあと父が昔買ってほこりをかぶっている「世界の大思想」のなかから「国富論」をひっぱりだして9ページほど読んだところで集中力が切れる。とてもじゃないが読破する自信ないぞこんなの。夜は恒例のコンビニ弁当ですます。

アストラッド・ジルベルトと雨音を聴きながら──他人の死の意味を探ろうとするある種のうっとおしい行為の裏にひそむ感情というのは、自分の生を特別なものと思いたい情動の裏返しではないのかと、ふと思う──とくべつな自分とありふれた自分の間でゆれる自意識。そんな過剰さは今の自分に必要ない。