内へむかう暴力

昨日は『血と骨』を『ゴッドファーザー』に比肩するかのごとく書いたが、まあちと持ち上げすぎな気もする。まあいいか。

ところで映画『血と骨』はほぼ在日コリアン内部の描写にとどまっており、なぜ金俊平があれほど金に固執するのか、暴力がなぜ内へ内へと向かうのか、そのあたりの俯瞰的な視点は省略されている。関西に住んでいると身近でいろいろと見聞きするからあれだが、そのへんの文脈を知らなければ脈絡のない暴力映画にしか見えないかもしれない。部落差別もそうだが、ごく近親で結婚が破談になったりとけっして過去だけの問題でもないという認識が自分のなかにはある。

もっと話を一般化すると、抑圧された(またはそう当人が感じている)者の不満が、外ではなく内のより弱者にたいする暴力へ向かうのはDVに見られるようにわりとありふれた話だろう。それは人間にとどまらず動物虐待といった事態でもひろがりをみせているはず。

とここまで書いて、そういえば封切り前の新聞紙上に宮崎学氏が『血と骨』について在日コリアンの歴史的背景をふくめた映画評を書いていたな、と思い出して検索したら氏のサイトに全文が掲載されていた。

絶望的な貧困と、露骨で重層的な差別の中におかれた場合、人は「何」をもって生きることができるのか。いや、その場合、人は「生」への欲求を「何」を通じて燃焼し続けることができるのか。この根源的な問いに対する冷ややかな回答として、この映画はある。