思考の遍歴

あら、上山さんから返答を頂いてる。びっくり。再返答したいところだけど、そんな知的体力もないなあ。どうしようか。ちょっと自分語りでもして整理しようかな。うざいので読み飛ばし推奨ですよー。
20代前半は専門学校卒業後に数年間のフリーター生活。20代後半は町工場みたいな所で一夏バイトした以外はほとんど働いてない。履歴でいうとまさにどでかい空白。ひきこもりだとかニートだとか自ら積極的に自称するのは嫌なんだけど、自宅中心の生活だったし、人間関係も疎遠だったし、就職しなければとはあせっていたけれど、思うにまかせない葛藤を抱えていたし、まあそういうものだったとは思う。30を目前にして、たまたま新聞記事で知ったひきこもりの支援団体に自発的に相談に行ったことをきっかけに徐々に自宅以外の社会参加の場を見つけて今に至る。

さらっとひきこもりの支援団体に相談に行ったなんて書いているが、そこには相当の葛藤があった。なぜならそれは自分自身にはっきりと「僕はひきこもりです」と烙印を押すことでもあり、そういったスティグマとどう向き合っていいのかわからず揺れ続けていた。

20代のころは自分の挫折とまともに向き合うこともできず、親が悪いだとか社会が悪いだとか、いやいやそんな自分が最も悪いと自分も含めた社会そのものを罪悪視していたように思う。自己否定の源泉もやはりルサンチマンだった。

そんな状態でむかえた30歳の大台はもはや絶望することでしか生きることができなくなっていたように思う。他者を責めても社会を責めても自分を責めてもただただ空しい。その頃の自分の最高の目標は「古アパートの四畳半一間で孤独死」だった。ニーチェの言葉を借りれば「人間は何も欲しないよりは、むしろ虚無を欲する」だ。

厭世的なニヒリズムに取りつかれつつも、それでもなお自分は生きたいと欲していた。多くのことを諦めてもなお生への否定しがたい希求がたしかに自分の中に存在することに気がついた。働けない自分は何もする資格がないという禁欲的態度が少しずつ変容し始めたのはこの頃だっただろうか。積極的に映画を楽しみ、本を読み、旧友と会い、サロンに出かけ、恋愛もした。

社会に矛盾はある。それはそういうものだといったん受けとめて、その矛盾のなかでどう生きるか、と今は考えている。もう32歳になった。いや、まだ32歳だ。将来を考えると胸が苦しくなることもあるが、暗中模索の中やりたいことはまだまだ尽きない。