あえて属性レベルの話

「ブログ選考基準」考
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050209#p1

雇用市場からの構造的排除が一方であるとして、引きこもり・ニートの心理面を問題にする必要があるとすれば、それは「対人恐怖」そのものというよりも、戦うべきところでちゃんと戦わず、やられるままになるその青臭い間抜けぶり、悪く言えばバカさ加減、それこそが核心的なのではないか。

まず僕の理解では、上山さんは「当事者ブログはこうあるべきだ」といった属性レベルでの話をされているのではなく、ひきこもり問題の課題をどう見出していくかという点において、できれば当事者かそうでないかに関わらず、課題を共有でき、認識を深められるようなサイトを選定したい、でもそれじゃ依頼された企画の意図に反するし……という話だと思う。

だとしてもこのエントリーは誤解を受けやすい書き方ではないだろうか。再三にわたってその人の属性ではなく、課題で問題を共有したいと述べながら、ひきこもり当事者の属性に関わることを述べて、「戦えない」当事者に対するいらだちを表明されているように受け取れる。

端的に言うと、「ひきこもりはもっと現実に目を向けて戦え!」という世間一般のひきこもりに対する説教と構造的に似通ってしまっている印象が強い。それがたとえ上山さんの本意ではないとしても、そう理解される可能性は高いのではないだろうか。課題共有と言いながら、こういったひきこもりの属性に関する刺激的な批判を同時に行なうのはあまり建設的ではないように思う。

ひきこもりの人間ってのもまさに過剰に「社会にまともに向き合おうとして」、社会に向き合えなくなった人なんだっていうのは、宮台氏も斎藤環氏も言ってるとは思う。

だから宮台氏も今回言ってるように、そういう人間はもっとテキトーに生きる必要があるわけなんだろうけど、そういう真面目な人間の「真面目さ」っていうのはなかなか変わらないし、もしそういう人たちがテキトーに生きようとしたとき、それこそ「真面目に」テキトーさを追求しそうな気がする。

この指摘は的を射ていると思う。非当事者にはなんでもないことがすでに真面目な当事者には十分すぎるほどに「戦い」ということもある。そういう意味では危機意識が高すぎるとも言える。間が抜けているのではなく、間が詰まり過ぎているのだ。この状態でさらに「戦い」をキーワードとするのはちょっと酷ではないだろうか。むしろ社会との摩擦係数を減らしていかに気持ちをほぐしていくか、という視点も常に確保しておいたほうがいい。孤立しているひきこもりが居場所(=陣地)のない状態で戦っても討死するだけじゃないだろうか。

あえて「戦い」をキーワードとするなら、それは当事者の苦悩と非当事者の苦悩の接点をどこに見出すか、という方向性だろう。一般の人だって人間関係や仕事でひきこもり当事者と課題を共有できるような問題意識を持っている人はおおぜいいるはずだ。個人レベルの問題をさまざまな社会レベルの課題とリンクさせる。そうすることで当事者の認識や視野もひろがって行動を起こすきっかけになるかもしれないし、互いに共闘できる素地も生まれるだろう。