ひきこもり的視点からみる毛づくろい的コミュニケーションについて

ブログやmixiでよく見かける「毛づくろい的コミュニケーション」
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20060416/kedukuroi
この中で斉藤環氏が「毛づくろい的コミュニケーション」という言葉を使っている。ここでの「コミュニケーション能力ばかり高い人」というのは、この「毛づくろい的コミュニケーション」能力が高い人だろう。

「毛づくろい的コミュニケーション」は2005年1月に開催された日韓ひきこもり会議で斎藤環氏本人がつかっていたことを覚えている。このときはひきこもり当事者と家族との関係改善に関するアドバイス的な文脈で語られていた。正確ではないかもしれないが、当時のメモから書き出してみる(ちなみにコミュニケーションスキルはさも技能として測定できるような価値判断ではないし、あまり好きなことばではないと氏は語っていた)。

斎藤氏はまずさいしょにひきこもり当事者と家族の関係性(コミュニケーション)を最重要視する立場を取っている。受け皿もない状態で当事者にアプローチしていきなり社会へ暴力的に放り出すのではなく、まず家族との関係回復から始めるべきだと。で、断絶してそのまま定着しがちな当事者と家族とのコミュニケーションパターンの接点回復のためにこの「毛づくろい的コミュニケーション」というやり方を提唱されていた。

どういうことかというと、ひきこもり当事者と家族(たいていは親だろう)のあいだでたまに交わされる会話は往々にして「この先どうするんだ」「働く気はないのか」といった親から子供にたいする説教という形を取りがちだ。この手の説教はそもそも本人がいちばんよく理解していて、しかしどうにもならないという葛藤をかかえている。

こういう本人も予測済みの正論、つまり「意味のありすぎる会話」は本人を追いつめるだけで、むしろコミュニケーションを阻害するという。だからそういった所から一歩引いてまずあいさつから始めるとか、本人を傷つけたり逆にむやみにほめたりせず、なにも伝わっていないのだけれども本人と家族との親密化に寄与するような、一見問題解決には無意味とおもわれるような雑談的なコミュニケーション=毛づくろい的コミュニケーションから始めて断絶した家族同士の回路を回復しましょう、といったものだった。

北風と太陽になぞらえるなら説教が北風で、毛づくろい的コミュニケーションは太陽。つまり間接的に家族間の関係をほぐす一手段、といった意味合いだった。

ここからは個人的雑感だが、ブログに置き換えて考えてみると、たしかに雑談的なコミュニケーションを促進する側面がブログにはある。でも一昔前の日記系サイトとくらべてサイト全体の趣きより、エントリー単位の情報の質がより重視されるブログはまずもって「意味のある実用性のあるエントリー」というものが増えたというか、求められやすい傾向がある気がする。もしくはそう思わされる(自分だけ?)。 

時にそういった価値のある情報かどうかという評価軸から逃れて「おれが発信する情報じゃなくておれそのものを見てよ!」的な意味の過剰性からのがれるべく、ミクシィ日記に見られるようなコミュニケーションそのものを重視するような自意識ダダ漏れのぬるい状況に身を置きたくなる心性がはたらくことがある。


ミサト 「自分には最初から価値がないと思い込んでるだけなんでしょ」
シンジ 「そうしなきゃいけないんだ!」
シンジ 「僕に価値はない。誇れるものがない!」
アスカ 「だからブログを書いてる」
シンジ 「ブログを書くことで、僕は僕でいられる」
つまり今日いちばん書きたいことはといえば、ビーフストロガノフがけっこううまく作れたよ! すごいでしょ! ということ。