「と考えるのは私だけだろうか」という紋切り型の言い回しに関する考察

永江朗『<不良>のための文章術』のなかの一節がおもしろかったのでメモ。

「と考えるのは私だけだろうか」という言い回しは、新聞などの投書欄によく見られます。もちろんこの後には「いや、私だけではあるまい」と続くわけですが、そこを省略する。しかも、省略することによって、反転もしている。「いや、私だけではあるまい」ならば、自分の意見は多数派のものである、という意味になるのですが、しかし「私だけだろうか」ということによって「多数派であることをアピールする少数派である私」をアピールする、という複雑な構図になります。「と考えるのは私だけだろうか」といいつつ、「そうだよ、あんただけだよ」と漫才でいうツッコミを待っているような態度です。したがって、その本意は、「私の意見はちょっと突飛ですよ」というわけで、その言い訳のような役割を果たしています。こういう言い回しはなんとなく気が利いていそうなだけに恥ずかしいものです。十人のうち八人がいだくであろうようなごく平凡な意見を述べた上で、「と考えるのは私だけだろうか」といわれても、読者は困ります。こういうところは下手な小細工をするよりも、「と筆者は考える」とでもしておいたほうがすっきりします。

『<不良>のための文章術』 P.102-103

ほかの例としては「奇妙」。「これは奇妙な小説だ」「奇妙な映画だ」など。何ごとかを言ったような気持ちにさせて実は何も言ってないと。この言葉をつかいたくなったら、他の言い方がないか探る。抽象的で空疎な表現じゃなくて、具体的な記述に置き換えられないか考えましょうってことか。この手のことば、けっこう使ってそうだなあ。

まあこの本はプロのライター志望の人向けに書かれたものなので、ここみたいに「チラシのうら」的なブログでそこまで気にする必要はないか。「読ませるエントリーを書きたい!」と向上心にあふれるブロガーさんには参考になる本じゃないでしょうか。

<不良>のための文章術 (NHKブックス)

<不良>のための文章術 (NHKブックス)