生きる意味や希望をささえる当たり前の秩序

昼過ぎから梅田のおうちカフェで、場所・運動・プレカリティといったテーマで研究会のお誘いをうけたので、ちょっと遅れて参加した。プレカリティとは「不安定な」という意味らしく、プレカリアートというのはそういう不安定な非正規労働にしか就けない労働者や階層のことをさす造語らしい。

アナキズムは社会制度としては成り立たないが、消えていくものとして意味がある。運動に方向性はあるが目的はない。理想は運動そのもののなかにある。いまは消費の空間かまったくのプライベートの空間しか存在しないのではないか。というような話が印象にのこった。

研究会後の飲み会は断り高槻のカフェへ。NPOスタッフたちと歓談しつつ失恋話などを聞いてもらう。「失って初めてその(彼女の)存在の大きさに気がついた」というありきたりのことを言ったのだが、ありきたりであるからこそ、そのなかにいくぶんかの真実がふくまれているのではないかと思った。

失恋の悲しみは過酷です。「あの人」を失うということだけでなはなく、自分の人間としての価値それ自体が否定されるように感じるからです。相手が、ほんとうに自分にとってかけがえのない存在だったとき、世界の意味は中心を失い、そのことで日常の明確な輪郭線をなくします。(略)働いたり、気遣ったり、配慮したりすることの一切が無意味になる。「何のために」、に答えてくれるものがないからです。このとき人は、昨日や今日や明日という当たり前の秩序が、ある何らかの生きる意味や希望によって支えられていたことに、はじめて気づくのです。竹田青嗣 『愚か者の哲学』P.121

失恋にかぎらず、現実の底が抜けたときに、人は日常の自分が何によって支えられていたか、本当に身に染みて気づくのかもしれない。この本では続いて人はとことん絶望することによって生きようとする身体の浮力をとりもどすと言う。深い失恋は、世界というものが、そのつどの希望や欲望や可能性によってその網の目のつながりを保っていたことを教えてくれるのだと。
愚か者の哲学