魂の労働

保津渓

何ヶ月もほったらしにしていた渋谷望魂の労働―ネオリベラリズムの権力論』を100ページ読んだ。横文字おおいなあ、高卒にはつらいよ、と嘆息しつつ気になった箇所にいくつか付箋をはる。そのなかに生活保護にかんして簡単に述べられた箇所に目がとまった。きょうあるニュースがながれたためだ。久留米市生活保護申請を受理するまえに、申請者に預貯金通帳のコピー提出などをもとめていたなど「事前審査」していたとして、県から「保護申請権やプライバシーの侵害の恐れがある」と改善指導をうけたというものだ*1

市は昨年度、事前に診断書や預貯金通帳のコピー提出、不動産の処分、生命保険の解約などを求め、「実施後でなければ申請書は渡せない」などと説明していたことが判明。その数は約千八百の申請相談数のうち、延べ九百四十四件に上った。

いっぽうで生活保護は不正受給のもんだいなどもからみ、受給要件があますぎるんじゃないかという批判もある。生活保護110番*2の「忘れられない体験とことば」や「激論掲示板」などを眺めていると、申請者や受給者にたいする感情的な批判が散見される(その批判がわるいと言いたいわけではないが、なにか息苦しいものはかんじる)。

『魂の労働』のなかではジグムント・バウマンを引用しつつ、消費社会の貧困者の過酷さを説く。

労働倫理が支配的な社会では、たとえば何かしら忙しそうにすることによって貧困者は取り繕うことができた。そうすることによって「怠惰」という道徳的非難を免れることができたわけであり、スティグマ(恥辱)を払拭することができた。しかし消費美学が支配的な社会では、貧困から脱出し、豊かな消費生活をじっさいに生きる以外に、貧困者は自己に対する「アブノーマル」という非難を払拭することができない。つまり消費社会においては貧困者は定義上、その存在が──行為がではなく──「欠陥」であり「罪悪」なのである。(P.89)

貧困であることが恥辱であるならば、自らの困窮を他者にたいして積極的にアピールすることに抵抗をかんじることは避けがたく、貧困者にたいする同情もきわめて発動されにくい状況に確実にあると著者はいう。

「手ごろな地獄」が日本においても用意されているのは、生活保護スティグマ感が八〇年代以降いっそう強まったことからも推測できる。八〇年代の厚生行政の「適正化」政策により、生活保護の補足率が低下したが、それは同時に当時支配的になりつつあった消費社会のロジックの浸透が、生活保護の需給をいわばアブノーマルな事態とみなしていったからではないだろうか。

生活保護をうけるくらいなら死んだほうがまし」という考えはそうめずらしいことではない。消費社会からの脱落はたんに貧困者というだけでなく、存在そのものが恥辱であるからだ。

『魂の労働』に関してはbk1の書評が本書を読んでいなくてもそれ単体としておもしろいので紹介しておく。