菊葉荘の幽霊たち

角田光代『菊葉荘の幽霊たち』を読んだ。──フリーターの男友だち吉元が目をつけた理想のアパート菊葉荘はあいにく満室だった。家探しを手伝っていた失業中の“わたし”は、住人を追いだすために菊葉荘にもぐり込む。そこで織りなす奇妙な人間模様を軸に物語はゆっくり動きだす──

“わたし”の視線はどこか冷めている。“自己実現”という意志が、自己の内から発する自発性ではなく外からの都合のいい強制であること。“自分探し”の果てにはどんな確たる答えもないこと。もう誰もがそんなことに気づき始めている。気がついたがゆえの所在のなさ。その空気。部屋のにおい。輪郭のぼやけた形にならない形。そんな感覚をふと覚えた。

結局わたしはあのときとてつもなく暇だった、そう考えるのが一番しっくりくる。(中略)そしてその途方もなく膨大な、使いきれないほどの時間のなかに、何もせずぽつんとたたずんでいることがどうしようもなく不安だった。(中略)だから、いくぶん興味がないわけでもなかった性的な部分へ吉元と足を踏みこむことで、手にあまる時間の半分くらいは消化できるのではないかと思った。

ともあれ、実際のところ、性交はわたしを時間のなかから救いはしなかったが、それでも、見知らぬにおいを嗅ぎながら見慣れない部屋で眠り、目覚めること、それはどこかわたしを安心させた。

「もしわたしたちがもっと暇だったら、おたがいばりばり仕事をして、結婚してたかもしれないね」

頭に浮かんだことをそのまま口にした。

『菊葉荘の幽霊たち』P.115より。

菊葉荘の幽霊たち (ハルキ文庫)

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