ハイパー・メリトクラシー化する社会

本田由紀多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13』を読んだ。本書では社会から人々に要請される能力を「近代型能力」と「ポスト近代型能力」に大別し、「ポスト近代型能力」が近年ますます評価・重要視されるようになっているとしており、またこの事態を危惧している。

本書による「近代型能力」とは基礎学力のようなテストなど共通の尺度で個人間の比較が容易でかつ努力の量で向上が見込まれる標準化された能力。いっぽう「ポスト近代型能力」とは個性や創造性・意欲、コミュニケーション能力など個人の人格や感情、身体と一体化した全人的な諸能力をさす。昨今喧伝される「人間力」や「生きる力」などがその典型である。

「ポスト近代型能力」の獲得には学校教育より家庭など生育環境による影響が大きく、本人の努力の量やノウハウともなじまない。その能力の測定基準に社会的合意形成もない。標準化された「近代型能力」に加えて、全人的で不定形ながら不断の努力を要する「ポスト近代型能力」を強く求める社会をハイパー・メリトクラシーと本書では名付けている。

さまざまな統計データから日本社会のハイパー・メリトクラシー化の実相を探る過程は正直物足りなさを感じた。ハイパー・メリトクラシー化に対抗する「専門性」という提言にもなかなか明確な道筋をイメージしづらいが、日常をおくるなかで感じる名状しがたいしんどさとは何なのか。その大枠での概念化は物事を考えるものさしとしておもしろいと思う。

これは非モテスクールカーストにおけるブログ間の一連の議論にも当てあまりそうだし、ニートやひきこもりの問題とも関連するだろう。内田樹氏は生き延びる力というエントリーで、学生の面接に対する評価基準として「コミュニケーション感度」を挙げている。ほんとかどうか知らないが『こちらのモード変換にどれくらいすばやく反応するか、その反応速度でだいたい点数が決まる』そうだ。ほとんど武芸のような域で一般的な所作が評価対象になるという言説はハイパー・メリトクラシー化の最たるものと言っていいかもしれない。

またサービス化する社会 - socioarcで述べられているように、産業構造ひいては社会のサービス化が若者に「コミュニケーション力」や「人間力」のようなこれまでにない高い水準の社交性を要求しているのではないかという指摘にもうなずけるものがある。