かもめ食堂が語りかけるもの

yodaka2006-05-09

京都シネマにて『かもめ食堂』を鑑賞。すーっと肩の力がぬけて口もとがゆるんだ。料理がほんとにおいしそう。

ヘルシンキの街角にたったひとりで食堂をオープンさせたサチエ(小林聡美)には気負いがない。何事かを背負いこんで日本をとびだしたミドリ(片桐はいり)や、長年にわたる親の介護から解放されてふらっとフィンランドにやってきたマサコ(もたいまさこ)には、なにがしかの生きることへの閉塞感や喪失感がみてとれる。

したいことだけをして、出会いも別れも成功も失敗もありのままに受け入れる自然体のサチエは、ミドリやマサコが持つ現在や過去のしがらみを感じさせるところがない。ラストシーンの「いらっしゃい」が象徴するように、雑で力みが入るミドリや几帳面でていねいすぎるマサコこそが観るほうにとって自分を仮託する存在だろう。

適度な、というより奇跡的なバランスの良さをかもしだすサチエに自分を重ねあわすことができる人はそうめったにいないと思う。サチエは日常に溶けこんだファンタジーそのもので、手が届きそうで届かない、でもひょっとしたら今そこにあるかもしれないささやかな幸福を体現している存在として観る者の羨望をあつめる。

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