ひきこもりと失恋とうつ病と

1時過ぎ就寝。3時半にいったん目がさめる。二度寝して6時に起床。朝食をとって三度寝して9時に起きる。天気がよかったので、午前からマウンテンバイクで農村部を1時間ほどサイクリングして軽く汗をかいた。

昼ごろに父がもそもそと起き出してきたので、しばらく長話をする。「一番鬱がひどかったときの父の対応はベストだった」、「親のありがたみを初めて感じた」と率直に父に伝えた。父は意外そうに笑っていた。「結局鬱になった原因はなんだったんだ?」と父に問いかけられた。

きっかけは失恋だった。でもさすがに失恋だけで重度の鬱になるほどこっちもやわじゃない。彼女は家族を持つことを望んでいた。しかしその時、僕はNPOスタッフを辞めて失業状態だった。結婚や子供をもつことなんて考えられないことだった。

すぐに仕事を見つけられるか? 33歳でまともな職歴のない自分には無理だった。

専門学校卒業時(23歳)は就職氷河期だった。新卒での就職を逃し、その後専門学校時に勤めていたバイト先に出戻ることになった。結局フリーター生活をそのあと2年ほど過ごしたときには、もう25歳だった。

世間知らずの当時の自分でも、さすがに将来に対するぼんやりとした焦りが生じ、就職活動を理由に長年つとめたバイト先を辞めた。でも何をやったらいいかわからない。どんな仕事に就きたいのか何の展望もなかった。結局、毎日のようにパチンコに通ったり、映画を観たり、ネット麻雀に興ずるだけで無為な日々を過ごしていた。

やがて近所の目もあって、外出することが後ろめたくなり引きこもり状態に陥った。もう27歳だった。その頃ようやく「ひきこもり」という言葉が社会で流通し出した。

「これ自分に当てはまるんじゃないか……」。愕然とした。

そんなある日、ひきこもり支援のNPOを紹介する新聞記事を読んだ。すぐにそのNPOのホームページにアクセスした。他にもひきこもり支援団体があるなんてまったく知らず、そのNPOのホームページだけを一年間ながめていた。なかなか訪問する勇気が湧かなかった。

しかし30歳を目の前に控えて、焦りが背中を後押しした。ありったけの勇気をふりしぼって個人面談を受けに大阪まで出かけた。事情をそのNPOの代表に話すと「君はひきこもりだ」とはっきりと言われた。複雑な気持ちだったが、ある種の安堵感もあった。

それからは徐々にそのNPOの活動に関わり、自助会の担当をしたりと、落ちきっていたコミュニケーションスキルを上げることに必死だった。やがてそこそこ元気を取り戻して、ふとまわりを見渡すと、自分よりコミュニケーションスキルの劣っている人ばかりじゃないか、と感じるようになった。

「これ以上ここにいる必要があるのか?」そんな疑問が生じた。

しかし紆余曲折を経て、コミュニケーションスキルで他人を順位づけすることの無意味さを持つに至った。やがてそのNPOを地盤にした新たなNPOが旗上げされた。自分もその新NPOのスタッフとなった。彼女と出会ったのはだいたいその頃だった。

しかしスタッフとして関わっていた事業部は1年間で幕を閉じることとなった。スタッフとして残る道も選択としてあったが、自分のその1年間の努力は大して評価されなかった。少なくとも自分はそう感じた。

付き合いだしたころは女子大生だった彼女は社会人2年目をむかえ、社会で働くことの過酷さを肌で感じて、ずいぶん価値観を変えていた。失業中にまともに職探しに動きださない僕に彼女は苛立ちや不安を感じたんだと思う。

結局1年半で付き合いは幕をとじることになった。「あんたは何も変わってない。あんたが悪いわけじゃない。変わったウチのせい」。彼女は何度もそうくりかえした。

まるごと10年間、普通に就職し、普通に恋愛し、普通に家庭を持つという可能性が消えていく道程が失恋という形で噴き出した。そして重いうつ病にかかった。

もう、うつ病を発症してから1年ちかく経つが、その間に家族や友人知人のありがたさを嫌というほど味わった。人づてに自分に合った仕事も見つけた。この先どうなるかはわからない。でもうつ病にかかったおかげで、変な話だが自我がかなり安定するようになった。

なんとかなるよ。なぜか気楽に今を生きられるようになった。そんな大きな転換期のなかに自分はいる。