ひきこもり・ニート・不登校の人たちの情報感度が高い?

雨宮処凛の「オールニートニッポン」 (祥伝社新書)』を114ページ(第2章)まで読んだ。本書はあとがき含めて251ページあり、まだ半分弱しか読んでいないので、この時点で言及するのはまったくもってフェアじゃないんですが、とりあえず書きとめておきます。

まず本書はネットラジオの対談を書き起したもので、とても平易で読みやすいです。かつ若年層の労働問題や心の問題から、中高年のホームレスの問題まで話題は多岐に渡り、出演者も個性的な面々で実におもしろいです。途中までしか読んでませんがオススメです(めっちゃテキトーだな。あ、金ないとか速読できるなら立ち読みでいいかもよ)。

が、9ページ目の序章で引っかかった。いきなり引っかかった(笑) 下記引用文は「オールニートニッポン」プロデューサー(NPOコトバノアトリエ代表理事)山本繁さんの『私が「オールニートニッポン」をはじめた理由』の中の一文です。

ニート・ひきこもり・不登校の人たちが、他の人より多く持っているもの、それは時間です。暇で、家にいることの多い彼らは、本、マンガ、インターネットに不断に接しています。それが彼らの特徴であり、情報感度の高さこそ長所なのです。いつも、彼らは自然に、そういう修業をしている──そうは考えられないでしょうか

実感としてそうは考えられません。私は20代からわりと最近まで、フリーター・ニート・ひきこもりを自ら体験し、身近にフリーターやニート生活をしている昔からの同い年の友人もいます。また、そういった人たちを対象にした自助会の担当をしたり、成り行きでひきこもりやニート支援NPOのスタッフをしていた事もあります。

ひきこもり問題のパイオニアである斎藤環さんや当事者視点から発言を継続している上山和樹さんの講演をじっさいに聞きに行ったり、さまざまな当事者・支援者・学者・文化人の発言や論考に本やネットやマンガを通じて、フリーター・ニート・ひきこもりの構造的問題などの情報に不断に接してきました。謙虚さを振り払ってあえて言わせてもらうと、引用文にあるように私は山本さんのおっしゃるとおり情報感度の高い部類に入ると思います。

しかし、ニート・ひきこもり・不登校の人たちとそれなりに接してきた経験から言わせてもらうと、彼らの情報感度はけっして高くありません。むしろ一般の人より相対的に低いように感じました。彼らは社会から、人間関係から、または経済活動などからかなり疎外された状態に置かれています。なにせお金を稼ぐこと自体が大きなハードルですから、親からの資金援助に頼るしかありません(しかし家族関係がこじれてしまっている割合も高いのでそう易々とお金を手に入れられるわけでもない。また渦中にある当事者である場合そういった情報を避ける傾向すらある)。私自身、情報感度を上げるのに相当の時間的・金銭的・心理的コストがかかりました。

情報というのは、字づらだけを追っていても血肉として身につきません。実際に他者と接して、そこで生まれる違和感・不安・喜怒哀楽などを通じて自らの経験と照らし合わせてフィードバックする必要があります。また情報に触れるにはそれなりのコストがかかります。ネットの情報に触れるなら、パソコン(もしくはケータイ)を所持し、プロバイダと契約し、アクティブに情報にアクセスする必要があります。本を買うにしたってお金がかかります。何百円の交通費だって馬鹿にならないレベルの人も多いでしょう。ニート・ひきこもり・不登校の人たちのどこにそんな余裕があるのでしょうか。事態が深刻であればあるほど情報にアクセスする手段を失い情報感度は鈍ります。

雨宮処凛の「オールニートニッポン」 (祥伝社新書)には現代日本において「生きづらさ」を抱えている人たちに示唆の富んだ情報を与えてくれています(何度もくり返しますが半分しか読んでません!)。しかしこの本を本当に切実に必要としている人に届くのかと考えると多大な疑問符がつきます。杉田俊介さんの『フリーターにとって「自由」とは何か』もすばらしい論考ですが、届かない。たぶん大多数のフリーターには届いていない

と、後ろ向きなことばかり言いましたが、なにはともあれできうる限り、あらゆるメディアを使って、キャラが強く、的確な問題意識を持つ人たちが先頭に立って様々な活動や表現をくり返すしかないのかなと思います。現時点では、まだまだ影響力の強い全国紙や地上波のテレビ番組で偏見を排して大きく取り上げられたら、情報が一気に派生するでしょうけど、これはなかなか難しいでしょうね。個々の草の根活動がいつか大きな実を結びますように。そう願っています。

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雨宮処凛の「オールニートニッポン」 (祥伝社新書)

雨宮処凛の「オールニートニッポン」 (祥伝社新書)