差異主義についてのメモ

仲正昌樹ポスト・モダンの左旋回』をしばし読む。著者自身も「左派」かと聞かれれば、まあそうかもと認めたうえで、どうもソリの合わない左な人もいるとのこと。そういった人々を著者は「典型的左翼」だとして、さらにその典型的左翼を著者なりに「左翼啓蒙主義」と「差異主義」とふたつに大別した考察が興味深かった。(P.288)

「左翼啓蒙主義」というのは、マルクス主義的な知見を基礎に、上からものをみて無知な人々を導いてやろうじゃないかという旧来型の左翼。うん、これはたしかにやなかんじだ。あまりお近づきになりたくない。

「差異主義」というのは、おもにポスト全共闘状況下で現代思想の影響をうけた人々で、日常にひそむ微妙な差異にこだわるとのこと。この人たちの多くは、ジェンダーや障害者やホームレスなど、いわゆるマイノリティ問題に関心をもって、「弱者」である彼らを代弁して差別あるいは抑圧者を糾弾したがるとのこと。「左翼啓蒙主義」が上からの押しつけだとすれば、「差異主義」は下からの突き上げだね。

著者曰く差異主義者のどこが問題なのかというと、「弱者」の「だれにも理解してもらえない痛み」を自分が代弁することの矛盾をじゅうぶんに自覚していないところにあるらしい。うーん、たしかに「だれにも理解してもらえない痛み」を抱えているマイノリティがいるとすれば、彼らの声をどこまで代弁できるのかといえば、なかなかややこしいものがあるし、マイノリティからの視点を絶対化してアジるだけじゃ、価値観を異にする人たちと実りのある対話はできないだろうな。

こういう安易な代弁主義がまかりとおると、「社会的弱者と一般的に認定されている人たち」を代弁する(と認定されている)人たちの言いたい放題という状況がうまれる。うーむ。「弱者」たってけっして一様じゃないし、そうなるとマイノリティの一面的な部分しか捉えられない恐れはある。

で、どうしても理解しえない「個人の痛み」があることを認め合ったうえで、なお分かり合おうという努力からしか、同等の人格をもった「他者」との本当の対話も共同体もなりたたないのでは、という結論にいたる。そういうスタンスはややもするとインパクトに欠ける気もするが、価値観を異にする人々との対話や「弱者」の尊厳をかんがえるとそれはたしかにそのとおりだとは思う。つーか、まあほどよいバランス感覚が大事だって話だな。