宮崎駿による黒澤明『生きる』の映画評

著書『出発点―1979~1996』のなかでの、黒澤明生きる [DVD]』(1952/日)に関する宮崎駿の映画評。この映画は名シーンがいくつもあるが、宮崎駿が注目したのは導入部のシークエンスで、主人公である市民課の課長(志村喬)が、役所で黙々と書類に判を押すこのなにげないショットが、この映画を象徴しているとし、いたく感動している。

書類をくり、判を押し、処理済の書類を重ねる。次の書類を取り上げ、チラッと目を走らせるが、読むほどの必要がない事は先刻判っている。また判を押す。その男の背後に積み上げられた厖大な書類の山。陰影の濃い画面、哀しい仕事を正確に律儀にくり返す男の所作。胸を衝く美しい緊張感と存在感溢れる映像である。(中略)

以前から、僕はストーリーや、テーマ、メッセージで映画を論ずるのは、バカ気ていると思って来た。お役所仕事や、無意味な人生への揶揄だけで、あのショットが撮られていたら、とてもあれ程の映像はつくれない。(中略)

無為というならば、無為なのだ。その男の律儀な哀しさは、自分達の生の持つ哀しさなのだ。何かをなしとげたから、生きる事に意味があるのではない。光と影があるならば、我々はいつも影の無惨さと共にある。あの書類の山の存在感は、何も小道具や照明がたくみだったからだけでなく、あの陰影が我々の心に秘(ひそ)む精神のかげりにつき刺さるから、胸を衝かれるのだ。

くり返すが、何かをなしとげたから生の意味があるのではない。あの男の生きることの、もっと深いものを見切ったのだ。一見積極的に生きること、他者の為に力を尽くす事の全面的肯定と受けとられる映画を、映像のワンショットが、更に深い内奥までひらかせる力を発揮した。黒澤明監督の『生きる』は、あのワンショットだけで真に素晴らしい作品と呼ばれるに値する映画となったのだ。そんな映像は、めったにつくれるものではない。

映像は、それだけの力を持ち得る表現方法なのだと、改めて噛みしめている。
宮崎駿『出発点』 P.190-192

関係ないが、今日KBS京都で見た「涼宮ハルヒの憂鬱」09話は興味深いな。部室に仕掛けられたがごとくの小型カメラ的ロングショットで、延々と読書する長門をとらえたシーンが象徴的だけど、日常を生きる高校生活の「なんでもなさ」を時間をかけて、客観的に浮き立たせていた。ロングショットは基本的には状況説明にもちいられる俯瞰映像だが、あそこまでしつこくやられると何か別の意図があるんじゃないかと勘ぐってしまう。

いや、勘ぐらせて引き付ける演出にすぎないのだろうか。よくわからないが、観る者をふりまわすメタゲームの素材としてよくできている。中毒性あるね、ハルヒって。

出発点―1979~1996

出発点―1979~1996